吉田城(愛知県豊橋市)

・続100名城に選定。今川家統治時代から始まり、江戸時代は吉田藩の中心として宿場町などが栄えていた。本丸跡の鉄櫓の真下に豊川が流れ、防衛の面でも優れたお城である。吉田城の石垣は見所の一つ。
・アクセス:JR豊橋駅から徒歩20分。豊橋鉄道『市役所前』から徒歩7分。

吉田城って何が凄いの?

吉田城と言えば高石垣
吉田城には、あの池田輝政が築いたとされる高石垣があります。2024年の調査で15mにも及ぶ大きさであることが分かったそうです。
シンボル的存在である鉄櫓も素晴らしいですが、実際に当時の遺構を見ることができるのは吉田城に行くメリットだと思います。それが迫力ある石垣ならなおさらです。東海地方でも随一を誇る石垣を持つ吉田城ですが、一体誰が築城したのでしょうか?
今回は、実際に北多門櫓跡で行われた発掘調査の現地調査に訪れましたので、その様子を記しながら吉田城を語ります。
ちなみに筆者は続100名城のスタンプ帳を忘れました泣。
吉田城の歴代城主

吉田城の歴代城主は有名な方ばかり。
築城者:牧野古白(後に今川家傘下へ)
↓
城主:酒井忠次(1560年代~)
城主:池田輝政(1590年代~)
↓
江戸時代:松平家らが入城し吉田藩を統治。
戦国時代にはビッグネームが続きますね。
池田輝政は吉田城を経て姫路城に配置換えとなりました。現在の縄張りも輝政のものとされていますし、城下町としての発展の礎を築いたと言えるでしょう。また、徳川四天王の一人である酒井忠次は、吉田城を受領して、家康の家臣で一番最初に城持ちとなりました。

結構、領主が変わっているけど、
戦は起こったの?

実際、徳川統治時代には信玄が攻めてきたこともあったそう。
そして酒井忠次は吉田城を守り切ったのだそうです。
……という吉田城のかくかくしかじかは、実際に鉄櫓へお越しを。今回抜粋したのは一部のみですので、ぜひ訪れて吉田城についての知識を深めてみてください。
では、現代まで残っている遺構を見てみましょう。
吉田城の石垣(調査説明会に参加)

一番のお目当てである石垣の様子です。
今回は発掘調査の現地説明会があったため、かなり間近で見ることができました。

今回筆者が得た新しい知識として、刻印と残念石があります。
石垣にある刻印は福島正則が使用していた。その他加藤清正が使用していた刻印、未だ使用者が不明な刻印が多数発見される。吉田城は、元々名古屋城の残念石(石垣になりきれなかった)が使用されていたとされるが、名古屋城にもない刻印があるため、全てが残念石じゃないのかも……?【現地調査資料より】

つまり、名古屋城は天下普請だから色々ある訳だね

そうですね。誰のものなのか気になります。
これらの石垣は、地震による崩壊を乗り越えて現代まで生き残っていました。今回の調査では記録になかった戦後の補修跡も発見されたのだそう。石垣の下には戦国時代末期の土塁、そしてそこに重なる江戸時代の石垣は、15mの高さになります。吉田城の石垣は、現代でも崩壊の危機があるとされているので、補修お願いします!
これまで多くの人によって紡がれた戦国のレガシー。お城好きなら絶対に一度は見ておきたい遺構です。
吉田城の鉄櫓

最後は池田輝政が築いたとされる鉄櫓へ。
中の展示は無料で入ることができました。

天守じゃないんだ?

実は天守である可能性もあるみたい。

研究者の中では、これが天守であると言う人もいるらしいのです。かつての図面で天守と書かれている資料もあるそうで、未だに議論の余地があるそう。丸亀城の天守との共通点もあるらしい。歴史はこういうロマンが最高。過去に行って確かめることができないから、夢は広がって行くばかり。
そうですね……丸亀城の城主である筆者から言わせてみれば、これは天守です!(丸亀城にふるさと納税すると誰でもなれます笑)
終わりに

・見所は石垣と鉄櫓。
・発掘調査は2025年まで実施中らしく、また新たな発見が生まれるかも。
・歴代城主には酒井忠次や池田輝政がいた!
今回は愛知県豊橋市にある吉田城へ訪れました。
吉田城は、愛知県の中でも随一の城跡。東海のお城を攻めるなら忘れずに。

石垣、見に行ってみたいな

ぜひ散策してみてください。
今回はここまで。ありがとうございました。
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